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魁サマ、辛抱です。

2010/07/22 18:03

 

 「 ややや」が並んだ大相撲名古屋場所の星取表。毎朝、新聞の運動面を開いては、その異例というか異様さにため息をついていましたが、今朝はこれに言いしれぬ寂しさも加わってしまいました。10日目に大関・琴欧州との一番で左肩を負傷した大関・魁皇が休場、「や」の仲間入りをしてしまったからです。

 でもこの「や」は他の「ややや」とは大違い、とファンの私は声を大にして言いたい。それにしてもなんということでしょうか。あと2番で勝ち越し、しかも24日の38歳の誕生日まで目前だったというのに。不祥事が後から後から出てくる相撲界にあって、品格は横綱級、右上手を取るだけで会場を沸かせることの出来る、いまや本当に貴重な関取だというのに、返す返すも残念!

 よもやこのまま引退なんていうことはないと思うけれど、早く怪我を治して来場所はぜひとも完全カムバックを果たし、幕内最多勝記録をまた更新してほしいものです。魁皇関のファンの方、お祈りましょう。その時、相撲中継もカムバックしていればなおよしですが。

実は今年2月9日、魁皇関は日本記者クラブのクラブゲストに招かれました。大相撲からは4人目と少ない上に、日本人力士のゲストは初めてでした。クラブゲストは皆、揮毫をされますが、魁皇関は「辛抱」でした。そう、いまこそ辛抱、辛抱、また辛抱です。なおこの会見の模様はクラブ会報481号とホームページで見ることが出来ますので、お時間ある方は是非。

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オランダは小さな国だろうか?

2010/07/14 17:42

 

驚きましたね。このブログを久しぶりに更新しようと開くと、なんと前回が「2009年の初めに」。1年半年以上が過ぎていたのです。しかも前々回が「2008年の終わりに」とは。こんなに長い冬眠から起こしてくれたW杯にまずはアリガトウ。私もいつになく熱心にテレビで観たり記事を読みました。そして最後に決勝スペインーオランダ戦のあと、オランダのロッベンが語った次のセリフが気にかかったのです。

「小さな国が決勝まで勝ち上がってくることができた。満足すべきだ」

あのモーレツなスピードとドリブルで2度もゴールに迫ったロッベンが1度でもシュートを成功させていたら勝利は逆だったかもしれないので、彼の無念は推して知るべし。でも私が興味深かったのは、オランダのスターが自分たちの国をいまは「小さな国」と言ってはばからないこと。確かにオランダは面積や人口の点からいえば小さい国かもしれません。でも私の中のオランダのイメージは世界の海、とりわけアジアで1度はイギリスを退け、マルク諸島はじめ香料諸島を独占支配したスゴイ国なんですね。ま、17世紀ともはや400年近くも前の時代の話ではありますけれど。でもいまも例えばODAは日本を早晩抜く勢いですよ。好むと好まざるとに関係なく、断絶しようとしても断絶できないのが歴史だとすれば、オランダ人にとってあのスゴイ時代はどのように位置づけられているのでしょうか。

もう一つ。優勝したスペイン。無敵艦隊という形容詞を使ったメディアが多かったですが、誤用もありましたね。例えば読売オンラインでは<「無敵艦隊」と呼ばれながら、勝負弱かったスペインが執念をにじませたー>とありましたけれど、逆ですよね。弱いから呼ばれたんです。1588年、英仏海峡でイギリス艦隊との戦いに敗れたスペインの大艦隊をイギリスが皮肉って無敵艦隊と呼んだので、スペインにとってこの形容はむしろ屈辱でしょう。スペインはこの結果、制海権を失い、結局衰退へと向かう。そしてこれを見て取って独立へとコマを進めるのがオランダというのは世界史のおさらいですが、海洋の動きはいつの時代もとても示唆的だなあと思います。

決勝リーグは旧宗主国がしぶとく残り、こんなことにも思いをはせながらW杯を楽しみました。

最後に蛇足。ドイツの監督がステキ。ポスト岡田に呼んでほしい監督ナンバーワンです。ダメでしょうか。さて次回が「2010年の終わりに」とならないようにしたいと思います。

 

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2009年の初めに

2009/01/06 17:21

 

 「2008年の終わりに」の次が「2009年の初めに」なんて、ちょっと素直すぎるというか、芸のないタイトルであるのは容赦していただき、ともあれ新年、書き初めは東京タワーのお話です。

 昨年12月23日に50周年を迎えたとあって、東京タワーのことは新聞やテレビなどメディアでも連日取り上げられていますが、肝心なことが(私に言わせれば)触れられていないからです。

何か。それは東京タワーの創設者、前田久吉氏が50年前、なぜ世界一高いタワー(当時は)を作ろうとしたのかということです。地震や台風など自然災害も多い日本で、数百メートルもの高い塔を作るなんて不可能ではないかという見方も当時は結構あったとされます。しかし前田氏は断固やり抜くぞとひるまなかった。その覚悟があったからこそ、今日の東京タワーがあるとも言えるわけです。

 彼に不動の信念を与えたものは何か。それは京都の東寺教王護国寺の五重塔でした。もともと関西出身で、大阪・天王寺や奈良・法隆寺などの塔が大空にくっきりとのびるその姿の美しさに惹かれていた前田氏が、電波塔についてあれこれ思案するうちに京都の五重塔があらためて浮かび上がってきたと言います。

 ≪今にのこるあの塔は、寛永18年徳川家光が再建したものだと聞いているが、三百余年も前にすでに、高さ50メートル余もある立派な塔が日本人の手で出来たのである。ましてや科学技術の進歩した現代である。日本人の手でやって出来ないということはないーーという考えが私の胸底に湧いてきたのだった。私はそのとき頭にひらめいたこのヒントをしっかりつかんだ。≫

 以上は、タワーが見事に完成した1959年、東京書房から出版された『東京タワー物語』に記された前田氏のあとがきからの引用です。

 実は前田氏は産経新聞の創業者でもあります。少々話がそれますが、時代を先取りするスピリットにあふれた方だったようで、日本の新聞で産経新聞が婦人面を最初に作りましたが、これも前田氏のアイデアとされます。女性は財布の紐を握る大事な消費者であるという合理的精神もあったのではないかと思います。

 ま、そんなご縁で私も昨年12月半ば、内部がきれいにリニューアルされたタワーのお披露目に多分、何十年ぶりかで訪れる機会に恵まれ、科学技術の粋とスタイリッシュな景観の見事さに圧倒されてきました。一時期、東京タワーは「お上りさんの行くダサイところ」なんて言われたこともありましたが、とんでもない、50年という風雪をくぐり抜け、すくっと立つ存在感は比類がありませんでした。

 その日は幸い青空が広がる晴れ渡った日で、東京湾はキラキラと輝き、所々たゆとうように雲が浮かび、そして四方八方、東京から関東までが一望できました。

≪この塔を見上げて今更のように感じるのは、日本科学技術の水準が、素晴らしい上昇をとげたということである。、、、(中略)これによってわが国産業貿易はますます発展してくるだろうし、この事が私は非常に愉快である。≫

 非常に愉快であるーなんてまっすぐなそれこそ愉快な言葉ですね。私も展望台にいる内に自然にそんな気持ちになりました。

 2012年には新しい電波塔「東京スカイツリー」が墨田区に誕生し、テレビ電波塔としての東京タワーは主役を譲ることになっています。高さだけをいうなら、スカイツリーは東京タワー(333メートル)の倍の高さです。技術の進歩もまた止まることがないのでしょう。

 しかし東京タワーは単なる電波塔ではない、高さを競うものでもない。それ以上のもの、そう時代や歴史、沢山の人々思い出がつまった、いまやランドマークと言ってもよいのではなかと思います。

 

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2008年の終わりに

2008/12/26 21:00

 

サリサリハロハロ通信というよりトキドキ通信と改名した方がよさそうなこのブログ、ふと気がつけば今年も今日が私の仕事納めです。「産経志塾」募集のPRだけ書いておいて事後報告もなく終わりではあんまりではないかと我に返り、オフィスの机の整理整頓の手を休め、ブログに向かった私です。

で、塾の報告ですが12月12日、13日に無事成功裏に(自画自賛?)終わりました。初回に続いて今回も募集と同時に定員(50人)が2日で満員になり、遠くは神戸、岐阜などから最年少は13歳、最年長は30歳の塾生48人が参加しました。開催場所は東京・大手町の東京本社です。ちなみに大阪本社では「産経適塾」という言わば兄貴分の塾が開催されています。

二日間の講義の詳細は23日付け本紙朝刊に1頁を使って報告されています。産経新聞をお読みでない方もMSN産経ニュースやウエーブ産経、ヤフーなどインターネットで見ていただくことが出来ます。実はちょっと驚いたのですが、このブログを書く前に試みに「産経志塾」で検索したところ、まあ、あるわあるわ、ぞろぞろとスゴイ。「大学を考える」とか「宮家邦彦の『お言葉を返すようですが』」などニュース以外のブログでもかなり広く取り上げられているんですね。宮家邦彦さんは今回の講師の一人ですが。

ともあれ自分がいかにブログといううものの世界に馴染みがないというか、知らないというか、その辺もよく分かりました。しかしまあタイヘンな世界でもありますね。そんなわけで塾の具体的報告は省略して、ひとことだけ感想を。今後の参考にと塾生にアンケートを書いてもらったのですが、「ありがとうございました。この二日間で私は変わりました」という16歳の高校生の言葉には思わず、「こちらこそありがとう」と感激すると同時に責任も感じました。塾生たちのこれからの人生で折に触れ思い出し、励みとなるような、そんな何か記憶に残る塾を来年3回目も開きたいと気持ちを新たにしました。そう、塾頭を務める私の方こそ16歳に勇気づけられてしまいました。

勇気づけられたと言えば、先日朝、NHKテレビで歳末の兜町を放映していたのですが、印象的なシーンがありました。サブプライム、リーマンショックと兜町は大揺れで、皆口々に不安や愚痴などをこぼす中、ただ一人、長年、この町で屋さんをやってきた店主が昨今の証券業界の現状を「今の兜町は良くないね。心がなくなってしまったもの」と言ったのです。続けて網の上のをひっくり返し、団扇で炭火をあおぎながら、さらりと「でも先を心配することなんてないさ。真面目に働いてさえいれば大丈夫なんだよ」とも言いました。

画面に店主の年齢はたしか86歳とありました。真っ白な割烹着、ピンと伸びた背筋、にこやかな笑顔。長い人生経験を積んだ人だからこそ言える単純にして珠玉の言葉。見ているこちらの気持ちをすがすがしくも明るくもさせてくれたのでした。それこそこういう心、気持ちがいま、日本の社会に一番必要なのだと思います。

最近、暗い話をこれでもかとばかりことさらに暗くして放送しているように思えるNHKでしたが、この屋の店主が一陣の風のように、暗さを吹き払ってくれました。

お正月になったらお店を探してを食べに行こうかしら。今年はこれでお終い。2009年はトキドキ通信を脱すべく本来のサリサリハロハロ通信を目指さなくては。皆様、良いお年を。

 

 

 

 

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産経志塾が第2回の受講生を募集しています

2008/11/04 10:55

 

 「産経志塾」の開塾はこのサリサリハロハロ通信でも書きましたが、第2回目の冬講座が12月12日と13日に行われます。講師はノンフィクション作家の上坂冬子さんと立命館客員教授の宮家邦彦さん。12日の昼食懇談会のゲストは元財務相の塩川正十郎さん。参加資格は中学生以上、高校、大学、大学院、専門学校を問わず。そして30歳以下の社会人。詳しくは本日の産経新聞朝刊(1面とい21面)などをご参照下さい。

 この塾の舞台裏をちょっと明かしますと、初回には60歳の熱心な方からも応募がありました。残念ながら規定通りということでお断りしました。モチロン、人間幾つになっても勉強することは大切ですが、「産経志塾」はあくまで若い人に勉強して頂きたい。それも単なる知識の吸収ではなく21世紀を担う人間力をつけるために。そこが学校でも講演会でもない塾たる所以です。

 実は今回の講師の上坂さん。第1回目の時に募集と同時に「私も参加したい」と希望されたのですが、これまた丁重にお断りしました。「あら、後期高齢者を差別するの」なんておっしゃいましたが、この好奇心とフットワークの良さに、サスガとあらためて感心しました。。

 そこで「受講生にはなれないけれど、講師にはなれますよ」というわけで今回の講師をお願いしたわけです、というのは冗談で、上坂さんのデビュー作「職場の群像」はじめ一連のノンフィクションを評価しているからです。トヨタ自動車のOL時代から今日まで、その作品群は膨大です。1回の講座で全部に触れることはとても無理でしょうが、ノンフィクションの作法や昭和史について、また最近訪れた日米激戦の地ガダルカナル島での感じたことなどを思う存分語って頂ければと期待をしています。

 宮家さんは元外交官。中国、そして中東という言わばホットスポットの専門家です。講座の演目は「宮家外交ゲーム」。仮想の朝鮮半島危機を想定、その時、日本は国際社会はどう対応するかシミュレーションをします。受講生たちはこの危機に関わる首相や外相、国連事務総長と言った役割を与えられ、それぞれ行動するーと講義のサワリを聞いているだけでなかなか面白そうです。宮家さんによれば「知的運動能力を高める」ことがこの講義の狙い。実際、知識を詰め込んでもそれが現実に生かされなければ意味がない。何も外交官でなくとも知的運動能力は大事ですからね。

 塩川さんはかつて「塩爺」の愛称で敬愛された政治家。私見ですが、塩川さんのような品格ある政治家が日本には本当に少なくなりました。金融危機のこと、解散総選挙のこと、受講生にはズバリ、核心に迫る質問をしてほしいなと塾頭としてはいまから期待しています。

 これを読まれた30歳以下の方、是非ご参加を。30歳以上の方は、息子さんや娘さん、弟や妹さん、誰であれ有資格者にお知らせ頂ければと思います。長々と塾の宣伝、ごめんなさい。では12月に出会えることを楽しみに。

 

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やっぱり。道遠し言論の自由

2008/08/06 14:14

 

 東京新聞のカメラマンと日本テレビの記者が中国の新疆ウイグル地区で取材中に拘束され、暴行を受けたとのニュースに、先日インタビューした人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの中国ウォッチャー氏が言っていたことは、ナルホドその通りだったのだなと感心しました。
 同氏は日ごろは香港を拠点に中国の人権・言論状況を見ているそうですが、北京五輪を前に中国の人権・言論状況はかえって悪化していると憂慮し、報道関係者への注意喚起も兼ねて来日したのでした。中国当局が言論・報道の自由に敬意を払っているなどと考えるナイーブな日本人は、いまやそう沢山いるとは思いませんが、先の暴行事件は法の番人であるはずの官憲の無法ぶりをあらためて印象付けたと言えます。余談になりますが、この手の被害者としては珍しくない欧米人ジャーナリストだけでなく日本人ジャーナリストまで殴られたところに、より悪化しつつある中国の状況が浮き彫りされているように思います。
 とは言え、中国の武装警官だったらこの程度のことはやるさなどとしたり顔で納得してしまっては相手の思うツボ。「我々は、メディアに対し、中国訪問の際に完全な報道の自由を与えるだろう」と大見得を切ったのは北京オリンピック組織委員会の幹部で、それは2001年7月12日、IOCが北京を2008年夏の開催地に指名する前日のことでした。そして晴れて開催地誘致に成功した後の2006年9月27日、中国のオリンピック組織委員会会長は記者会見でこう述べているのです。「中国は自らした約束を守り、それに従って行動する。(中略)。中国政府は開催地立候補期間中に公約したことを尊重する」
  以上はヒューマン・ライツ・ウォッチが発行している「北京五輪取材ハンドブック」からの引用ですが、ちなみに英語版はwww.hrw.orgからダウンロードすることが出来ます。
 北京五輪開幕は明後日。中国が公約を本当に尊重し、人権に敬意を払い開催者の責任を果たすかどうか、こちらの面もじっくりと観戦したいものです。なぜならそれは単に国際社会だけでなく、中国自身にとって大切なことでもあるのですから。

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猛暑にお勧めの1冊、『開戦神話』について

2008/08/04 19:25

 

 元ニュージーランド大使で尚美学園名誉教授の井口武夫氏が長年取り組んでこられた、日米開戦をめぐる外交史の研究がようやく1冊の本にまとまり、このほど『開戦神話』(中央公論新社)として出版された。サブタイトルのー対米通告はなぜ遅れたかーに井口氏の思いが凝縮されているようだ。正直、これは執念の著作だと思う。
 1941年12月7日(米国時間)、日米の戦端を開いた真珠湾攻撃は米国ではいまだに「だまし討ち」の代名詞のようになっていることは周知の通り。その対米通告の遅れが当時の駐米日本大使館の怠慢のせいというのも人口に膾炙された通説だった。井口氏はその通説に疑義を申し立て、通説を正すためにひとり、10年という歳月をかけ一次資料や関係者の証言、遺稿などにあたり、ご本人の言葉を借りれば「真相解明作業を完成」させ出版の運びとなったのである。
 では通告の遅れの責任は誰にあったのか。
 一言で言えば、ワシントンの大使館ではなく、外務省本省と軍部にあったのではないかというのが井口の研究結果だ。
 開戦直前に東京からワシントンの日本大使館に打たれた公電の至急度が明らかに改竄され、大使館への配送を遅らせた疑惑を示す克明な資料が、時間を追って掲載されている。詳しくはこの労作を読んで頂くことをお勧めしたいが、このほかにも従来の通説を作り上げた証言の矛盾を一つ一つ突き崩すプロセス、しかも、当時の東郷茂徳外相や加瀬俊一北米課長、瀬島龍三作戦参謀などの歴史上の著名人たちをいずれも実名入りで、誤りを指摘していく勇気ある作業は、まさに執念と表現するほかない。
 先日開かれた出版記念会では「これは親孝行論文」と表現する声もあった。井口氏の父、井口貞夫氏は問題の開戦当時は駐米大使館参事官、つまり遅れの責任を問われる立場にあったのだ。井口氏は小学5年生。ワシントンにあって真珠湾攻撃のニュースを知り、先行きに不安を抱いた幼児体験の描写から著作は始まっている。父の言われなき不名誉を晴らすためと書くと何やら仇討ちみたいな話で、そのような気持ちが井口氏にまったく皆無ではなかったにしても、著作から伝わってくるものは、「一体事実はどうなのか、真相は何なのか」というあくなき探求心である。
 それにしてもあの戦争はなぜ回避出来なかったのか、回避する道は本当になかったのか、いまさら歴史のイフ(もし)を繰り返しても仕方ないが、さまざまなことを考えさせられる。と同時に、妙なリアリティーを持って感じさせられることは、本省の責任を出先の責任にすり替えてしまう構図というものは、実は珍しくはないのかもしれないということだ。例えば本社の責任なのに出先の支店や支社の責任にしてしまうと言ったことは、残念ながら企業一般に見られることを感じるビジネスマンも少なくないのではないだろうか。『開戦神話』からは、副産物としてそのような世の理不尽さも読み取ることが出来るように思う。

 
 

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いま、なぜか塾の時代

2008/07/28 18:52

 

産経新聞東京本社では若い人々を対象に『産経志塾』を開塾することになりました。日時は9月2日と3日の二日間。詳しくは7月25日付けの産経新聞やサンケイ・エクスプレス、あるいは読者のファン・クラブ、ウエーブのホームページなどをぜひとも見て頂きたいと思いますが、なぜ私がここで取り上げるかと言いますと、実はこの塾の塾頭が私なのです。そしてさらにもう一言添えますと、最近、こうした開塾の動きがなぜか世の中で目立つのですね。
先日も六本木にある国際文化会館の方が来社され、差し出したパンフレットは『新渡戸塾』開校のご案内でした。新渡戸とは言うまでもなく、名著『武士道』の著者であり、国際連盟(国際連合ではありません)事務局などで活躍した新渡戸稲造博士のこと。『新渡戸塾』はその彼をロールモデルとして「国際的な視野から社会に貢献できるリーダーを育てる」のが狙いで9月から来年2月まで全10回で開校の由(ご関心の向きは国際文化会館に問い合わせ下さい)。
私もびっくりしましたが、相手も「産経新聞も『産経志塾』を開くのですよ」の説明に「そうなんですか」とびっくり。ちなみに産経大阪本社ではすでに「産経適塾」という幕末の蘭学医、緒方洪庵の「適塾」に由来する塾を開いていて、東京本社はその緒方の志を受け継ごうとの心意気なのです。
インターネットとは対極にあるような塾というどこかレトロな響きが現代の私たちに受けるのは、回顧趣味とばかりは言えないように思います。昨今、学校教育というものが形骸化し、人々は真の学び舎を求めているのではないか、それを手作りの感じもする塾に見出そうとしているのではないか。また年齢も産経は30歳まで、国際文化会館は40歳といずれも次世代を対象にしている点も塾に託された精神、狙いが分かるようです。
そう、これからの日本、そして国際社会を担う人々に、『産経志塾』の呼びかけの言葉を引用すれば、「人間力」をつけてほしいのです。困難な状況にあっても、乗り切っていけるような力ーそれは単なる知識のつめこみではない、総合的な人間力ではないでしょうか。
「そう言えば早稲田大学では大隈塾、慶応大学には福沢塾があるそうでうすね」と国際文化会館の方。もっと探せば津々浦々、塾はいろいろありそうです。
そうそう、もう4年前のお正月に萩市を一人旅し、松下村塾を訪れたことを思い出します。いまでは小さな鄙びた地方都市から、そしてさらに小さな松下村塾から、なぜかくも沢山の明治の立役者たちが輩出したのか、それは偉業そのものであり、まさに驚きですが、つきつめればそれを生み出したものは人間の志であり力にほかなりません。
時代は変わっても、私たちもまた同じ日本人。そのDNAはきっと残っているはず、と思いたいものですね。とまあそんなことを考えながら、塾頭は元気で好奇心に満ちた塾生を迎える日を楽しみに、塾生たちの期待を裏切らないよう準備もしなければと考えております。
最後に、私事ながら6月24日付で論説委員長を退任しました。ご声援、ご叱責、もろもろありがとうございました。肩書きは特別記者に変わりました。特別と言っても特段のことはなくて、このブログのプロフィールにもありますようにモットーである生涯一記者に晴れて?!戻った次第です。


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御堂筋の「銀杏落とし」をやめないで

2007/10/11 19:17

 

 もうじき創刊1周年を迎えるタブロイド紙の「サンケイエクスプレス(正しくはローマ字)」は、自社ものながら、いまではすっかり私の通勤の際の愛読紙ですが、中でも記者たちのコラムはどれも一服の清涼剤の趣があり、大好きです。
 今朝11日もコラム「勿忘草」で大衡那美記者の御堂筋のイチョウについての文章を読みながら、大阪特派員時代の思い出につかの間浸りました。
 平成14年、初めて迎えた大阪の秋。鮮やかな黄金色に染まった御堂筋のイチョウ並木を見た時の感激はいまだに忘れられません。それまでの「秋は紅葉」の通念が見事覆され、「黄葉」の素晴らしさを発見しました。そして11日開催された「銀杏落とし」は、大衡記者も書いているように大阪の秋の恒例行事として例年、行われてきたのです。
 ところがコラムによれば、その催しも将来は姿を消すかもしれないというのです。地面に落ちた実が臭いと通行人や周辺店舗から苦情が絶えず、車も実を踏んでスリップすると危ないと、管理する大阪市が植え替えの際に実のつかないオスの木を植えているためで、かつて400本あったメスの木は現在では270本に減り、このまま植え替えが進めばギンナンもまた御堂筋から姿を消すーというわけです。
 残念ですね。せめて100本くらいはメスの木を残せないものでしょうか。かつて「銀杏落とし」は大阪の料亭などに卸すために業者によってセリにかけられたほどの人気商品でした。ところが中国から安価なギンナンが大量に入ってくるに及んで、メード・イン・御堂筋のギンナンの需要も減っていったー大阪特派員時代に地元の人から聞いた話です。当時は「それも時代の流れ。仕方ないのか」と思いましたが、いまはちょっと心配。私もギンナンが好きで秋には戴きますが、中国産のギンナンは大丈夫でしょうかねえ。たっぷり排気ガスを吸ってはいないでしょうか。。。茶碗蒸しのギンナンには産地が書いてありませんしねえ。
 たしかにギンナンは臭い。でもニオイもまた自然現象ではありませんか。臭いニオイでは南国のフルーツ、ドリアンも負けません。駐在したシンガポールではドリアンを持って地下鉄に乗ることは禁じられていました。それも分からないではありませんが、私は出張でフィリピンのミンダナオ島ダバオの空港に降り立った時に、強烈に匂ってきたドリアンのニオイに、念願の出張が実現したうれしさを文字通り体感したものです。無臭都市シンガポールより、サリサリ(ごちゃごちゃ)で人間的なフィリピンが好きな所以です。
 もっともこれは生来、香草やクサヤの干物など匂う食べ物が大好きな私の独断かもしれませんが。
 ともあれ、大阪の風物詩を少しだけ残してほしい一心で、大阪市に向けて久々ブログにエントリー致しました。

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生涯にただ一度のフィッシュヘッド・カレー

2007/04/24 13:15

 

 なぜか自分からは食べたいと思わないのに、食卓に出されて仕方なく?食べてみると、これが意外に美味しいと思える私にとって不思議な食べ物、それがカレーライスです。つまりお御馳走ではない。珍しくもない。特別でもない。でも何か飽きない普遍的な味があるんでしょうね。
 そんな中で、「でも、これは一度で十分」と思ったのが、シンガポール名物と言われるフィッシュヘッド・カレーです。
 シンガポール支局に赴任してしばらく経った頃、知り合いの日本人に聞かれました。「もうフィッシュヘッド・カレーは食べましたよね」。「いいえ」と答えたら、「ダメですよ。シンガポールに来てこれを食べなくちゃ」と即、お昼に連れていかれたのが、インド人街のリトルインディアにあるフィっシィヘッド・カレーを食べさせるお店でした。
 もう10年近く前のことなので、店の名前も忘れて、覚えているのは、店内がとても混んでいたこと(繁盛していたのでしょう)、洗面器みたいな大きなボールに入ったカレーが出てきたことくらい。もちろん中には魚の頭がどーんと横たわっていました。肝心の味は、ちょっと魚臭かったこと以外はあまり覚えていない。残念ながらそれほど美味しいとは思えませんでした。
 そもそもなぜカレーに魚、それも頭を入れなくちゃいけないのか。魚の頭なら鯛のかぶと煮は大好きなんですが。
 聞くところによると、これは南インドにルーツのあるカレーのようですね。シンガポールのインド人はケララ州やタミルナド州などインド南部からの移民が多いので、頷ける話ではあります。多民族国家のシンガポールにはそれぞれのルーツに根ざした料理が沢山ありますが、フィッシュヘッド・カレーはチキンライスとともに、シンガポール化した名物料理として独特の存在感を放っているわけです。もっともどういうわけか、私はこの二つはあまり好みではなく、屋台のフィッシュボール・ヌードル(つみれ入りのおそば)が好きという、まあマイナー派でした。
 シンガポールのカレーでは、食べたというより啜ったという方が相応しい激辛のこげ茶色のスープがなつかしい味です。名前はもう忘れましたが、クリケット・クラブで時折お目にかかる親日家のインド系シンガポーリアンとのランチで定番でした。材料は多分お豆。心臓が止まりそうなくらい辛いのですが、老境に入った彼は、その辛さをものともせず、私が彼の故郷の味を注文するのをとても喜んでくれるので、実は他のメニューを頼めなくなってしまったというのが正直なところでした。でもシンガポールというと、あの例を見ぬ辛さのスープと常夏の日差しを懐かしく思い出すのです。

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